妹へ

兄です。
今日は母の日でしたね。
いつかあなたもまた母になるのかな、なんて思うと不思議な気分です。
今日は、そんないつか母になるであろうあなたについてちょっと考えていることがあって、こうやって話をしようと思ってます。
口頭だと普段のようにダラダラと続く軽い話のようになってしまうから、こうして文面でしか言えないことを詫びておきます、ごめんね。
では。

反抗期真っ盛りのあなたはよく親に反抗しますよね。
そりゃ当然だと思います、そういう時期ですもの。
兄も兄なりに学校の提出物をやってないのに「やったよー」なんて言ったり、にもかかわらずパソコンで遊んだりしては怒られてました。
誰にでもそうやって「たてつきたい」時期はあります、それはわかってます。
そんな時期の人にこういうことを言うのはあまり意味がないような気もしますが、あえて言わせてください。
「たてついた」相手の感情を考えたことはありますか?
一瞬でも、自分が同じように今の自分のような子を持つ親になったことを考えたことはありますか?

家出をしたあなたを追いかける親のセリフまで考えたことはありますか?
追いかけてよ!と催促する母の感情と、催促されて渋々行く時の父の表情とセリフを、考えたことはありますか?
仕事を二の次にしてあなたの部活や学校関係のことで教職員とうまく話をつけに行かなきゃいけない、という時の親のココロを考えたことはありますか?
作ったご飯を見もせずに「いらない」と言われる瞬間の、料理人の気持ちを考えたことはありますか?
本分である学業を省みずに携帯や音楽に走るあなたを見守り援助する、その親の気持ちを考えたことはありますか?

一度、とりあえず一度でいいです。
じっくり、「今の自分のような人々だけの世界だったら」、「今の自分のような人々だけの家族だったら」ということを、真剣に考えてみてください。
本当に、そのままの自分でいいのか、考えてみてください。
できることなら、「考えても分からない」自分を徹底的に否定してください。
天才とうたわれるアインシュタインは、ひとつのことを何年も何十年も考え続けたからこそあのような偉業を成し遂げた人です。
努力の天才であるあなたなら、出来ない話ではないと思います。

恩着せがましい言い方になってしまうのは本当に申し訳ないです。
「私の何が分かるんだよ」と言われても仕方ないですね。
ですが、あなたのことが分かる人なんて、いないに等しいのですよ、家族を除けば。
親族でさえちゃんとあなたを知っているわけでもない、親友だってあなたの比較的表面的なところまでしか見られない。
家族を除けば、無条件にあなたの味方になってくれる人なんて、いないのですよ。
そして家族は、あなたの味方であるからこそ、あなたを叱り、あなたを怒鳴りつけるのです。

ちょっと話を変えましょうか。
あなたは「大人になる」ってどういうことだと思いますか?
あるいは「社会人になる」ってどういうことだと思いますか?

日本では20歳になると「成人」します。
急に大人になったかのように扱われます。
でもそれは、あくまでも行政側の「制度」に過ぎません。
成人しても大人になれない人は、たくさんいます。
成人式の日のニュースを見たことはあるでしょう?ああいう不可思議な人たちも「成人」なのです。

中学を卒業して高校に行かずに就職する人たちも一般には「社会人」といいます。
とすれば、何か定職に就いてちゃんと働いて金を稼ぐ人たちのことを「社会人」と言えるわけですが、では逆に、定職につかず、金も稼がず、しかし学生でもなんでもない成人達は、社会人ではないのでしょうか?
おそらくそれは違うでしょう。
学生をやめて「社会」に関わるようになった途端、働こうが何しようが人は誰でも社会人になるのだと、兄は思います。
どこかの国にいる限り、そこで暮らしを営む限り、人は誰しもが社会に関わらざるを得ません。
まぁそういう話はまたいつかしましょう、今はそれを言いたいんじゃない。

では大人とは、社会人とはどういう人をいうのでしょう?

それは、「社会を自らが支えていると強く意識でき、かつ社会に自らを支えてもらっていると強く意識できる人」のことだと思います。
社会に積極的な参加をすることで自分の属する社会を盛り立てつつ、その属する社会にいる他の人にも同様に盛り立ててもらっている、と思える人のことを言うのだと思っています。

あなたは、これまで一人で生きてきましたか?
あなたは、これまで誰かを一人で生かしてきましたか?
どちらも「ノー」のはずです。

それでは、あなたは、これまでにしてもらった「恩」や「礼儀」をどのようにして返すつもりですか?
返却不可能な相手に恩や礼儀を感じたとき、あなたはそれをどうしますか?
ただ自分のいい思い出として片付けますか?
それでは、社会人としてだめなのです。

共生するというのは、そういうことなのです。
誰かにしてもらったことを、今度は自分が「他の」誰かにしてあげることなのです。
誰かから無償で受け取ったプレゼントがあるなら、例えそれが自分のデメリットになるとしても、同じように他の誰かに「善意をもって」無償でプレゼントをあげなきゃいけないんです。
見返りを求めないでもらったものを、今度は自分が、見返りを求めずに誰かにしてあげる。
「親切」ってそういうものでしょ?

さて、そろそろ話を戻しましょうか。
もう何が言いたいのか分かってきたかもしれませんね。

先に「無条件で味方してくれるのは家族だけ」と言いました。
そう、最初から親切にしてあげられるのは、家族だけなのです。
そしてこのことは、他のどの共同体や社会でも起こりえません。
最初から親切にしてくれる人々はよほど人がいいか、あるいは何かウラで企んでいる危険な人のどちらかです。
一般に「世間」といわれるところでそういうことがあったら九割方は後者ですので肝に銘じておくように。
そして必ずいつか、今いる家族は、死にます。
あなたの目の前から、姿を消します。
霊となるかどうかは知りませんが、確実に肉体は朽ち果てて消滅します。
そうして無条件に味方してくれる人が消えるということは、つまり心安らかにできる場所を、「家」を失くすのと同じことです。
帰る「家」を無くしたとき、あなたはどうしますか?
新しい家を作りますか?ではその家を作るのはあなた一人ですか?その材料は誰が調達しますか?
誰かの家に泊まりますか?そんなに安心できる他人の家を見つけられますか?

私たち家族は、これから先、あなたが「新しい家」を探せるように、そこに住めるように、あなたを全力で応援しているのです。
そのために叱咤し、そのために激励しているのです。
私たちは必ず死にます。
その時、あなたが帰る家に困らないように、私たちは、私たちが死ぬよりも前に、あなたに家の作り方を、家の探し方を教えているのです。
あくまでも、親切心として。

「家」は、言い換えれば「家族」であり、「友人関係」であり、所属する「社会」です。
どこにでも、探して作ればそこに「家」はできます。
ですが、最初からある「家」は、他の何者にも代え難い絶大な信頼感を持つものです。
男である兄には計り知れない話ですが、母というのは特に偉大な「家」になりうる存在です。
母自身が腹を痛めて数々の苦痛を乗り越えて授かった命である以上、その涙と努力の結晶である我々「子」は宝石以上の宝物なんです。
彼女にとって、あなたはまた、何者にも代え難い「家」なんです。
父だって、あなたを養うために、愛する母を養うために、汗水たらして頑張っています。
自分のしたくない仕事や業務を押し付けられても、グチを言いながら渋々引き受けながら必死になって働いています。
面倒くさい仕事の付き合いだって我慢しながら、家では色々と罵られながらも、けれども自分のためだけでなく、家族のために、あなたのために頑張っています。
あなたが安心して何不自由なく過ごせるように。
そのことを、深く、強く感じてください。
そしてそういうことを常に想い続けられる「素敵な大人」になってください。
大学生になったばかりの若造が言える話じゃないでしょうけど、でもきっと、同じ二人の子である以上、あなたにもそう思える瞬間がくると思います、そう信じています。

最後に、兄自身の話でもしましょうか。

最近は家に帰ってはご飯を食べながら野球を見て笑っているだけのように思ってるでしょう。
事実そうなので否定はしませんが。
心のどこかで、「兄ちゃん家のことなんもしてないよ」と思ってませんか。
まぁそう思われても仕方ない暮らしぶりなので否定はしませんが、言い訳だけでもさせてください。

あなたは「兄だからできるんだよ」と時々言いますね。
そんなことないことがほとんどですが、今のあなたは確実に兄よりもできないことが一つあります。
それは、「場の空気を和ませること」です。
あなたは家の空気を活発にさせることは非常に上手いです。
それは兄以上に上手いことです、それは確かなんです。
ですが、場を落ち着かせる空気にするのはできないと思います。

兄自身、家では確かに大したことしてません。
目に見えてわかるようなことなど大してできてないだろうし、親孝行もちゃんとできている気がしません。
ですが、兄は他の誰よりも、「場の空気を和やかにさせる」ことに気を払っています。
それはなぜか。
あなたは気にも留めないでしょうけど、家は心身を休ませることのできる場であるべきです。
ということは、リラックスできる雰囲気や空間が必要なわけです。
まぁ兄はそういうのが好きですし、そうありたいと願っているのもありますが。
(殴り合いの喧嘩がほとんど無いだけまだ幸せな方だと思っていますが)言い合いのケンカが時々起こるこの家をそのような雰囲気で包みたい、そう思ったときに兄のような「緩衝材」が必要だと思うのです。
どこか落ち着ける、そんな空気を出すことで、家の中もどこか暖かくなるような気が、兄はします。

兄は、暖かい家が好きです。
怒ることもあるけれども、平均してみればなんとなくにこやかでいる時間の方が多い、そんな家が大好きです。
いつまでもそうありたいものです。
だからこそ、「緩衝材」であることを選び、そのために気を払い、そのために胃腸が荒れることになってもずっとそのことばかり考えています。
まだ予定はないですが、いつか兄が結婚して家庭を支えるようになっても、そういう暖かさのためにこの身を削っていこうと思ってます。

そして、そういう「献身さ」を、これからのあなたに求めていきたいと思っています。
ただの我慢ではありません。
自分を多少犠牲にしてでも他の誰かを幸せにしたい、そう心から思えるようなあなたを、兄は求めています。
家族は勿論、それを友人や赤の他人にまでできるようになれば、あなたは非の打ち所が無い素敵な人になれるでしょう。
それは兄が保証します。

最近またちょっと胃の調子が悪くなってきました。
兄の胃は弱めなので、色々と考え込むとすぐ不調を感じます。
兄ももう少し、気を使わないで生きていきたいです。
じゃないと体が持ちそうにないなぁ。


こんなところでいいかな。

まぁこの文章を読む頃に兄が生きているかもわからんし、なんならあなたが見るかどうかも怪しいけどね。
読むのはいつになっても構いません。
ただ、これだけは言っておきたくて。

健やかでたくましいあなたが誇らしく羨ましいです。
それでは。

コミュ力ってなんですか?それは必要なのですか?

どうも。

実は。
大学の授業がいわゆる「コミュ力」を試すようなものが多くて苦痛でなりません。
大学生になるとやたらチャラつく輩がいますが、そういうのを毛嫌いする性質のある自分にとっては、コミュ力がそのようチャラさそのもののように見えて、なんだか微妙な感じです。
そんなにコミュニティ作ってどうするのかしら。

クラス、という概念がほとんどないウチの学校において、春学期(4月~9月)の週に二回、二コマしか一緒にならないような人たちとそんなに密に接しようとしても無理があると思います。
それにやってることといえばグループワーク的なやわらかめの体育と情報基礎という地味ーな作業。
…普通に出席しさえすれば単位がもらえるような授業で彼らはいったい何を恐れてそんなに知り合いを作ろうとしているのでしょうか。
私にはさっぱり見当がつきません。

同級生に金持ちがいるとか、やたらすごい研究所とか会社にコネがある、とかでその人たちと知り合いになろうとするのはなんとなくわかります、くだらない理由ですけど。
でもそんなんでもなく、単純に「友達になろうぜ!」というノリだけで声をかける。
見習うべき姿勢だとは思いますが、なんというか、その必要性を感じないというか、自分には合わない姿勢だなぁ、とつくづく感じている今日この頃です。


話すこと自体は別にどうということはないのですが、自分から話を切り出すことは基本苦手です。
「話したい話題がない」「伝えたいことがない」「なんなら別にお前に打ち明けたい思いなんかない」というのが本音。
とっても表面的で事務的な、愛想笑いばかりを連発するような会話にしかなりません。

趣味が合うわけでもなく、仕事が一緒なわけでもなく、連帯感を感じるようなことがない相手に対して、なんであんなに他愛もないことで喋れるのですかね。
自分にとっては「つまらないもの」とか「くだらないこと」とか「興味のないもの」としてしか処理されない話題が多いこと多いこと。
私個人の問題だとは思いますが、まぁなんというか、未だに、というか、年々人と接するのが苦手になってきているような気がします。


「面白い」と思わないような人に、どうして声をかけられるんでしょうか。
そもそも、どうして知らない人に声をかけられるんでしょうか。
同級生だから、同い年だから、という些細な理由だけで声をかけられる、うらやましい限りです。

まぁこんな人間なので、自分から友人を作るのは非常に苦手です。
なので、「面白い」と思ってもらえるように日々自分を磨いているつもりです。
「面白い」と思ってもらえれば、一言でも二言でも話かけてもらえるだろうし、そこから話が広がれば万々歳なわけです。
それを狙っているし、それしかないんです、自分には。
だって「こちらから発信したいことなんてない」んですもの。

自分に関心を持つ相手というのは、たいてい趣味とか趣向とか、そうでなくても感覚的なところでどこか通じ合うことのできる相手である可能性が非常に高いと思います。
自分としては、そういう人たちにこそ話していきたいし、そういう人たちくらいにしか話したいことなんかないんじゃないかと思います。
狭いコミュニティかもしれませんが、広くて浅くて逆に孤独を感じるようなコミュニティよりかは、遥かにいいと思います。

…あとは、自分の記憶力の問題かもしれません。
そんなに覚えられませんよ、関心の合わないような人の名前や顔なんか。
もともと知識として記憶することが不慣れな自分にとって、そういう「不快」とは言わないまでも「不慣れ」を感じてしまう記憶するという動作は性に合わないんですよ。
それを、授業でもなんでも、第三者からとってつけたようなコミュニティの場に放り込まれて、「ホレ、この人が○○さんだ」とか、「10人と友達になりましょう!」みたいなことをさせられるのは、非常に苦痛でしかないわけです。
作りたくなったらね、誰だって必要にかられりゃなんだってしますよ、なりふり構わず。
それでいいじゃないですか。


自分の殻を作って、その中に閉じこもって、その中で考えたこと、感じたことを、そっと世の中に還元する。
そういう生き方をする人も、いなくはないんです。
そういう人が生きやすい世の中、とまでは言いませんが、そういう人を殺すような世の中にはしてほしくないものです。


なんで、そんなに、誰かに話すようなネタを持ってるんですか。
なんで、そんなに、友人作りに夢中になれるんですか。

自分には分かりえない感覚です。
いつだって、友人は「気づいたらそうなっていた」関係でしたから。

魔女の大鍋の中でその味を噛み締める

どうも、ご無沙汰してます、私です。
一ヶ月に一度程は更新していきたいですね、えぇ。

さて、キャンパスライフです。
履修申告などもしたりして、いよいよ本格的に授業やサークル活動などが始まります。

もうしばらくはバイトの予定はないです。
やりたくない、というわけではなく、いずれ(遊びとかドラムの資材とか買うために)バイトくらいはしたいなー、と思ってはいるのですが、まぁほら、半年くらいはさ、ちゃんとキャンパスでお勉強したほうが良くないですか。
キャンパスライフも板についてきたところでバイト、というのが予定です。
まぁ慣れない内からそんな色々新しいことするもんじゃないと思う。
ただ、慶應内で「慶應の魅力を伝える」為のバイトがあるらしいので、これは可能ならばしていきたいなーと思います、高収入では決してないが。
変なところで変に働くよりかはまぁまだいいかなー、と。

「元ロック研究会」という名のサークルに入ることにしました。
その名のとおりロックなことをしたりします。
たまーにアニソンとかポップス的なこともするので「元」と付いているそうです。


自分の知らない世界を知っている人たちがたくさんいます。
自分の世界がいかに狭くて小さいかということを思い知らされます。
その小さな世界で今まで何を創造してきたのかということにすら頭を抱えたりもします。
色々とショックを受けます。
鬱々としたりもします。
なんならコミュ力のやたら高い大学生気取ってる人たちもたくさんいたし、二言目には「LINEやってる?」とスマホ片手に聞き出す人たちばかりで唖然としてます。
各人の好きなアーティストだって「なにそれ」っていうものばかりです。
僕はイタリアのメタルとか知らないし、なんならUKもUSもちゃんとは知らない。
でもそういうのを前提で話したりする人たちも、少なくないです。
本当に、沢山の感銘と、同じくらいのショックを受けます。

でも。
そういう世界に旅立つ扉を作ってくれること、あるいは、そういう世界があるということを知らせてくれたこと。
「新しい世界」へ踏み出す一歩を後押ししてくれたこと。
そういう機会に、そういう仲間に巡り合えたこと。
これは、何者にも代え難い財産、これ以上ない幸福そのものだと思います。
知的営みをするのが人間らしさであるならば、自分自身の人間らしさを後押しし、支援し、補助してくれる、そういう「家族」とは違った不思議な幸せ、そのものだと思います。

自分の小ささに呆れ果てます。
自分の趣味の少なさや関心の無さに呆然とします。
他人との関わり方の下手さ加減にただ立ちすくんでいるばかりだったりもします。
ですが、そんな惨めさを感じるこの身であっても、それなりの幸せを感じられたりもします。


大学とは、そういうところです。
不思議な巡り合わせが起こること自体は、決して不思議なことではありません。
どんな歯車が噛み合っているのかは知りませんが、それが動かしていく運命というものは、とっても、面白いものです。


抜けきらない疲労感とか、たばこの臭いとか、まだぎこちない友人関係・施設や教員との関わり方とか、自分自身の未熟さに悩まされたりとか、考え方の相違だとか、いろんなことはありますが、私は、元気です。
ただ学ぶだけでなく、ただ遊ぶだけでなく、何かそれらを超えた、メタな学び、メタな遊びを得られたような気がして、とても感激しています。

まだ始まったばかりのキャンパスライフです。
不安とか不満のようなものも、無くはないです。
ですが、この大学という奇怪な歯車が動かす運命に振り回されるのも、また、面白いものなのかもしれません。

楽しみです。


では、また。

まさかとは思ったがな

―藤里さんに来ていただきました!おめでとうございます!

「あざっす!!」

慶應環境情報学部!奪いました!

「いやぁーもぉー…苦しいところからはじまって、苦しさから辛さになって、辛さを超えたら今度は睡魔が来て…眠気がね…。でも最終的に、ま、こうやってみんなで、笑顔になれたこと、藤里の親族の人たち…笑顔が届けられたこと、最高です。」

―それを藤里さん、自ら11学部不合格から、環境情報学部合格へもっていきましたね

「僕は持ってますね、やっぱり、ハハハ(笑)。いやー、神が降りてきましたね!いやー、もうここで受かったら、いやもう、あの会場では、あぁもうこれ学校からの期待が物凄いことになってると思って、それをあのー、なんか自分の中で実況しながら、受験会場に入っていて、まぁそういう時って結果出ないんですけど、いやーちょっと一つ壁を越えたような気がしました、ハイ。」

―この受験が始まって、もう先ほど藤里さんおっしゃいましたけれど、山あり谷あり、で最後は残り3学部で迎えたこの頂上決戦でした。

「いや谷しかなかったですけど、最後に山に登れて良かったです、ハイ。」

―そして、この公式サイトの合格の二文字を眺めた思いはいかがでした?

「気持ちよかったですねぇーもー…ほぼイきかけました、えぇ、サーセン。」

―藤里さん!ブログの更新を見に来ている方もたくさんいますよ!

「もうね、現実で会う皆さんもー…あのー…ブログに今日来てくださった皆さんも学校からの、あのー学校からの期待も……全ての、方に、感謝したいです。ありがとうございました。」

―今日朝出る前で最初に「慶應いくぞ」と!

「聞こえちゃいましたか!えー最後に、あのー、今回はですね、中学受験みたいに毎回毎回そういうことはしなかったんです。というのはあのー、俺が、もう、凄いテンションが上がって、もう必要が無かったんですよね、でも流石に今日だけは、もうイクぞと、いう思いで、えー、やっちゃいました。えぇ。」

―さぁこれから、キャンパスライフが待ってます

「はい。えー、1年ぶり、私服では僕はやったこと無いので、思いっきり楽しんできます!」

慶應合格おめでとうございます!

「ありがとうございます!」





というわけで春からSFCです。
マジなんだぜ、これ、ビックリだろ。

こんなかんじ

―藤里さんに来ていただきました!おめでとうございます!

「あざっす!!」

早慶!二学部連続!奪い返しました!

「いやぁーもぉー…苦しいところからはじまって、苦しさから辛さになって、辛さを超えたら今度は痛みが来て…心がね…。でも最終的に、ま、こうやってみんなで、笑顔になれたこと、藤里のファンの人たち…笑顔が届けられたこと、最高です。」

―それを藤里さん、自ら4学部不合格から、志望学部合格へもっていきましたね

「僕は持ってますね、やっぱり、ハハハ(笑)。いやー、神が降りてきましたね!いやー、もうここで受かったら、いやもう、あの会場では、あぁもうこれ学校からの期待が物凄いことになってると思って、それをあのー、なんか自分の中で実況しながら、受験会場に入っていて、まぁそういう時って結果出ないんですけど、いやーちょっと一つ壁を越えたような気がしました、ハイ。」

―この受験が始まって、もう先ほど藤里さんおっしゃいましたけれど、山あり谷あり、で最後は残り5学部で迎えたこの頂上決戦でした。

「いや谷しかなかったですけど、最後に山に登れて良かったです、ハイ。」

―そして、この合格発表の掲示板を眺めた思いはいかがでした?

「気持ちよかったですねぇーもー…ほぼイきかけました、えぇ、サーセン。」

―藤里さん!ブログの更新を見に来ている方もたくさんいますよ!

「もうね、現実で会う皆さんもー…あのー…ブログに今日来てくださった皆さんも学校からの、あのー学校からの期待も……全ての、方に、感謝したいです。ありがとうございました。」

―今日朝出る前で最初に「早慶いくぞ」と!

「聞こえちゃいましたか!えー最後に、あのー、今回はですね、6年前みたいに毎回毎回そういうことはしなかったんです。というのはあのー、みんなが、もう、凄いテンションが上がって、もう必要が無かったんですよね、でも流石に今日だけは、もうイクぞと、いう思いで、えー、やっちゃいました。えぇ。」

―さぁこれから、キャンパスライフが待ってます

「はい。えー、1年ぶり、私服では僕はやったこと無いので、思いっきり楽しんできます!」

早慶合格おめでとうございます!

「ありがとうございます!」













といういつぞやのWBC優勝時のイチローのヒーローインタビューみたいなことをしたいわけですよ、えぇ
うおおおおおおお………辛いわぁぁぁぁぁ…………


というわけで合格欲しいです。
ください。

信じる

もし。
もし仮に、「愛する人に求める条件」が完璧に揃っている、あるいは、今愛している人と同じ条件を持つ別の人がいたとして、その人を愛することは絶対ないと言えるだろうか。
言えるとして、ならばそれは条件以外で結局何故その人じゃなきゃいけないのだろうか。
「思い込み」なのではないのか?
もはや信仰や崇拝とも言えるような、そんな根拠のない、確証のない、ふわっとして不確かな、そんな曖昧なものを、絶対として考えているんじゃないのか。

だが私は、その妄信を否定するつもりはない。
自分もまた、そういう不確かなものを好み、その不完全さを「人間らしさ」と名づけ、その曖昧さを「愛」と呼び、その崇拝とも言える過剰な思い込みを、「信じる」という言葉に変えて賛美しているからだ。

曖昧なんだ、確証はないんだ、「そうでなきゃいけない理由」なんてあってないようなものなんだ。
だからこそ、いつまでもそれを忘れずに、いわゆる「初心忘るべからず」というヤツで、自分が「これじゃなきゃだめなんだ」と思い込める、その「愛の深さ」の鮮度を、いつまでも、保つ必要がある。

信仰は、力だ。信じられるというのは、強い。
その強さこそが、時に強靭な意志となり、時に逆境を愉しませ、時に頑固な妄想と化し、時に「善さ」を忘れさせる。
その危険な二面性を忘れずに、「信じること」に向き合わなければならない。

「絶対」なのだ、信じるということは。
それがブレるようなら、そんなものはまだ「信じる」に値しないのだ。
信じるということは、自分の残り全ての人生を掛けてもいいと、残り全ての人生を棒に振っても構わないと、そう言い切れる強さを持って、始めて「信じる」といえるのだ。
それくらい思えるのか。
信じられるのか。
いつまでも、ずっと、自問自答し続けることでしか、それは鮮度を保てない。
最早悪いストレスの一種だ。だがそれを好んで、勝ち取りに行くのだから、信じるということは、非常に恐ろしい。

しんねん

そういえば新年でした。
あけおめことよろです。


ここしばらくはTwitterの方に専念していた(?)ため長らくブログを更新していませんでした。
Twitterの方に書きたいこと書いちゃうんだよね、なんでもかんでも。

でももうちょっと落ち着いて考えて、きちんと140字じゃ収まりきらないことを書きたいなと。
もちろん毎日のようにそんな出来事が起こるわけでもなく。
毎日の中で沸々と沸き起こってくるのは一言二言の「呟き」ばかりですので。
依然としてやはりTwitterの方に書く事のほうが多いとは思うのですけれども。

ま、何か考えていたり、あるいは「これどうなの?」なんて思っている、そんな時にここを更新します。
更新頻度は相変わらず低いと思いますけど、まぁ、なにとぞ。



なぁんて書いておきながら、別に今日は何かあるような気はしないんですけどね、はは。

ではでは。