Disqualified person

ボクは、ディオニスだ。
 
ボクはメロスでも、セリヌンティウスでもなく、ディオニスだ。
 
メロスが信じた「愛」、メロスが守った「誠」、メロスが貫き通した「正義」。
セリヌンティウスが信じた「信頼」、セリヌンティウスが守った「友情」、セリヌンティウスが貫き通した「信実」。
そういう麗しいものに、酷く嫌悪感を覚える。
人の心情を一時的な、不安定な、自己中心以外の何者でもないとしか思えないのだ。
もっと言うと、人の五感その全てに疑いを持っている、と言ってもあながち間違いではない。
 
正義とは何だ。
大多数の人間のために、真の強者になり損ねた偽善者のためにある言葉ではないのか。
悪とは何だ。
少数派の人間のために、真の悪者になり損ねた浮浪者のためにある言葉ではないのか。
 
愛とは何だ。
そこいらの人間が、何かのために何かをしてあげることか。
憎しみとは何だ。
そこいらの人間が、何かを毛嫌いし、その存在すら許せないことか。
 
信頼とは何だ。
悪徳者が善の者を悪の道に染めるための詐欺か。
裏切りとは何だ。
弱者が負け惜しみのために使う言葉か。
 
違う。
全然違う。
 
正義と悪は表裏一体で。
時勢によって、結果によって、後の人たちが決める勝手な評価。
 
愛と憎しみは表裏一体で。
時勢によって、結果によって、接し方を変えるカメレオンのようなもの。
 
信頼と裏切りは表裏一体で。
時勢によって、結果によって、選択せざるを得なくなるもの。
 
自分のためにしか、人は、生きれない。
そうとしか思えない。
 
今日ボクは憲法9条を擁護する人たちを見た。
私自身「平和を望んで」いなくはない。
血や肉片、飛び交う弾丸、破壊される時の轟音が聞きたいわけではない。
だが、まるで「平和」が全てであるかのように。
まるで「平和」が良いかのように謳う人たちを見て、ボクは腹が立った。
 
戦争に巻き込まれている地域も何も考えないで、ただ自分達の命が守れればそれでいい。
だから「この国の」平和を謳っている、「この国の」平和を望んでいる。
永遠なんてない、いずれ滅びる。
ここはエデンの園ではない。
今という大きく変わりつつある時代は、平和ボケした日本人には、丁度いい節目なのかもしれない。
 
自分が生きられればそれでいいのだ。
つまるところ、HEROなんて最初からいなかったんだ。
白馬にまたがる王子様も、万民を想う賢なる国王も。
欲望のままに生き、願望のために働き、偽善を用いて敵をつぶす。
それのどこが「愛」で、それのどこが「正義」なのだろうか。
とある人は言ってた。「人の為、人の為、というがそれは偽だ」と。
 
ボクは決して少数派をたてるわけではない。
それはボクの中にもまだ残念ながら「正解」「間違い」という概念が残っているからだ。
いや、もしかしたら少数派が真の正解のなのかもしれない。
だが、それと同じ確立で、多数派が真の正解であるとも言えるのだ。
 
真の正解、と言ったが、それは何を「ものさし」にしたときの正解なのだろうか。
人の為?ヒトの為?地球の為?誰の為?
 
つまりは正解・不正解の判断もまた、ひとつの「〜だとしたら」という「仮定」であるのだ。
まぁ、仮定についてはこっちで語ってたので省略。→http://d.hatena.ne.jp/jyawagenjin/20081221
ともかく、「真の」と言う時点で、誰の為でもない、ということなのだ。
 
神は、存在するのか?
宗教とか八百万とかいったらアウト。
偶像の神はいません。
本当の神は誰かの為に施すことはない。そう思う。
偶像の神は、各々の「正義」のために在る。
もう、その時点で神ではなく、正義の象徴であることが分かる。
 
要は。
この世に絶対なんてない、ということ。
精神の中に在る「エデンの園」ですら、存在しないのだ。
残酷なまでに存在否定をし続ける、それが本当の神なのかもしれない。
 
 
 
 
ボクは、ディオニスだ。
決して感情を心の底から信じれる人間ではない。

ボクは、ディオニスだ。
メロスの存在しない世界で、ただ一人、自分を殺し続けている、ディオニスだ。