天秤

裁判員制度がスタートしたようですが、そんなこと関係なく平和に暮らしている藤里です。
 
 
ふと思ったのですが、裁判員制度って有名人も対象なんですよね?
てことはもしかしたら法廷であんな人やこんな人に出会えるかもしれないわけですよね。
ま、だからって期待するわけでもなく。
面倒くさいのは嫌ですし、何より人を人が裁くことの重さを理解していない自分なんかに人を裁けるわけがないです。
自らに罪を課するのと同じくらい、あるいはそれ以上のことをする。
…それが自分達の背負う十字架なのですか?
 
 
よく「人の振り見て我が振り直せ」とはいいますが、なかなかそううまくはいきません。
まあ、自分を直す分にはいいんです。所詮は自分の中だけですから。
ですが、直すのが自分ではなく赤の他人なら…。
自分の時以上にうまくなんていかないはず。
それを見据えてなのかは知りませんが、裁判員として選ばれるのは6人のようです。
三人よらば文殊の知恵、ではありますが、船頭多くして船山に登ることないことを願うばかりです。
 
ところで求刑の際はどうするのでしょうか。
また、公平な立場の裁判を円滑に進めることはできるのでしょうか。
そして、本当にそれで裁判の重さは国民に知られるのでしょうか。
始まって何を今さら、ではありますが…。
人を裁く、そんな立場のお偉いさん方が決めたこと、人を導くお偉いさん方が決めたこと。
…民主主義国家に、少数派は要りませんものね。
万民を思っての政治、ってのはお偉いさん方や多数派の方々のためにあるもの。
…ボクみたいな歪んでいる人には、適応されませんもの。
 
 
…自分はパブリック・エネミーになってでも、自分のために生きる。
夜に嫌われ、光に嫌われようとも、自分は自分のために、生きる。
…それしか、自分を、世界を知らないから。
信念でもなんでもなく、ただ、そうありたいと思う。
 
 
裁判員として?
あくまでも傍観者として、第三者としてなのだろうけれども。
その目は、誰の目?
その判決は、誰の意思?
社会という絶対の秩序を装った、暗闇に潜む意思ではないの?
救うためには、何かを見捨てるしかない。
それの判断は、過去?未来?
 
絶対の判断なんてのは多数派のためにある。
神に見捨てられた少数派は、ただ孤児となるだけ。
…多数派という、千手観音にね。
 
 
裁判員制度が、数の暴力にならないように、あくまでシンクタンクの増加としての裁判員制度であることを、願う。
中立なんて、簡単にいってはいけない。
簡単に区繰られないような、そんな中立が、本来の裁判のあるべき姿である。
 
不完全は、補いなって完全と成す、だろ?
その終着点は黒でも白でもなく、筆でなくてはいけない。
…そんな、多数派よがりでも少数派よがりでもない判断ができれば、良いんだけどね。