矛盾と本当の境目、無気力の指先。

本来は「ノンズサムタイムスブログ」の方に書き込むべきなんだけれども、アメブロが今メンテ中ということで、こちらに。
 
 
さて。
 
とある番組をちょこっと見てました。
で、今capsuleやMay'nさんあたりを聞きながら書いてます。
 
 
 
 
本当の意味で「いい音楽」ってなんでしょうね。
 
 
それはまぁ人それぞれ、といってしまえばそれまでなのですが。
 
 
自分だけの話をするならば、ね。
今の腐りきったラップ詞を恥ずかしげもなく歌うくらいなら、30年も40年も前の歌謡曲を堂々と歌った方が本当の歌手なんじゃないか、と思う。
と、いうのもだ。
このブログ、もうひとつのブログで散々言っているように。
今の歌はどうも商業だけの歌だ、と。
そこらの歌なんかでは到底人の心を動かすだけのものなんかもってやしない、と。
そう思うからに他なりません。
その分、昔の歌謡曲はストレートに、言葉巧みに、人の心を掴むわけです。
それ以外に何もない、そんな気もしますけれども。
 
しかしながら、歌とはなんでしょう。
曲と区別されて取り上げられる理由はなんなんでしょう。
 
そう、言葉。
それ以外の何者でもないわけです。
 
本来、言葉一つだけで十分人の心を動かせます。
「呪う」「愛してる」「助けて」「お願い」
それこそ、腐るほどの言葉たちが私たちの心をこれでもかと揺り動かす事が出来ます。
あまつさえそれで十分なものに、さらに曲をプラスする。
その意味は?
 
 
歌の本質を忘れた「うた」が多く、それが氾濫しているのが現代です。
 
情報の氾濫、洪水が謳われている昨今。
それは音楽も例外ではありません。
 
 
何を今更、ではあります。
しかしながら、だからこそ、もっと。
本当とは何か、本来とは何か、それらを追求するべきだと思うのです。
 
 
 
 
 
 
「音楽に優劣なんてない」
そうです、もちろんそうです。
自分自身そう感じています。
 
しかしながら、若干の差別意識も感じられずにはいられません。
自分自身、こうして現代の「J-POP」のあり方に疑問を抱いているわけですから。
ちなみに自分の言い分はこうです。
「中身が薄い、やたらと横文字を使う、結局何がいいたかったのか」
ケチをつけることならいくらでも出来るでしょう。
そのせいか、評価はやはり苦手です。
頑張ってそうしようとは思っているんですけどね。
 
 
今をときめく、という言葉。
果たして未来永劫、どのままにときめくものでしょうか。
 
 
流行、とはかくも酷いものです。
だれもそれを疑うことなく受け入れ、それが全てであるかのように、信仰する。
誰一人として、疑うことなく。
 
皆「自分らしさ」をアピールするために、皆が求める流行に走る。
なんという矛盾、なんという失態。
それに気づかずに首どころか体をまるごと投げ入れていく人たち。
なんという精神、なんという暴挙。
 
そんなに孤独が怖いのだろうか。
少し孤独を過大評価しすぎなんじゃないだろうか。
 
 
流行に乗り遅れたって、飯を喰らい、水をがぶ飲みし、呼吸をすればいきていけるんです。
大体、みなの思う孤独なんて、ちゃちなものなんです。
その大抵が「偽りの孤独」なんです。
 
コンビニに行けば店員がいる事でしょう。
美容室に行けば美容師がいることでしょう。
テレビやラジオをつければ人の声が聞こえてくる事でしょう。
雑誌や新聞を読めば人の顔を知る事が出来るでしょう。
 
ほら、あなたはこの世界にたった一人なんかじゃない。
 
 
所詮、みなの思う「孤独」なんて甘えなんです。
友人がいなければ、果たして本当に孤独か。
そんなはずがない。
「天涯孤独」なんかより、遥かにましでしょう。
すくなくとも、こうしてこの記事を読んでいる人は、そのほとんどが孤独なんかとは無縁でしょうね。
 
 
孤独を紛らわすための流行、なんて所詮は紙くずです。
20年たってからその流行にのる人なんて、まれでしょうからね。
まず20年前の流行を、今の人たちは堂々と披露するだろうか。
そこからも答えはわかるはずです。
 
 
 
それは、ファッションだけではなく、音楽に対してもきっといえることでしょう。
今の流行はその名前からもわかるように「流れ行ってしまう」もの。
まるでなかったかのようにすぎさってしまうもの。
それをほったらかしにして、今だけを見つめる。
あんまりにも、あんまりじゃないですか。
 
 
 
 
今があるのは、昔があるから。
それを忘れている気もして、少し不安に思います。
 
 
決して「過去に生きろ」といいたいわけではありません。
ただ単に、「本当に今が全てか?」、そういいたいだけなのです。
 
 
 
 
 
随分と話がそれてしまった。
 
 
耳に残る、と名曲、とは随分と違います。
例を挙げるならば「さかな、さかな、さかな〜。」ですね。
あれは非常にキャッチーですが、歌としての意味はほぼ皆無です。
せいぜい、「魚を食べましょう」くらいでしょうか。
 
逆に、耳に残らなかろうと、マイナーだろうと、名曲であることに変わりない曲だってあります。
自分の中では例えばBUMP OF CHICKENの「メロディーフラッグ」があげられます。
別にBUMPだから、ではないです。
ただ、腑に落ちるところがあったからであるに他ならないわけで。
 
 
 
そう考えると、「いい音楽」とは非常に難しいものです。
 
例えば。
例えば、ですよ。
 
・歌詞がそれほど難解でもなく、かつ分かりやすい
・コード進行に程よくマイナー7がのっかかってくる
・メロディーラインが素晴らしい
 
などの「理論的な」名曲が腐るほどあるとします。
 
ならば、その全てが人々にとっての名曲となりうるでしょうか。
無論、答えはNOです。
 
理由は簡単。
「星の数ほどの環境が人々を育てるから」です。
 
聞いてきた曲によって、育った過程によって、人は大きく異なる人物像になる事は、もう周知の事実です。
ならば簡単な事。
「共通点」なんてのは所詮限られた人々の間での合言葉のようなものでしかないわけです。
 
 
Aさんは長調を主に聞くが、Bさんは短調を好んで聞く。
あるいはCさんはJASSを聞くが、Dさんは電波曲を聴く。
なーんて分かれてしまったら、もうどうしようもないわけです。
4人に共通することは唯一つ。
「とりあえず音楽が好き」ということだけ。
 
そうなるともう分類も何もないわけですよ。
だから、そういう一般論なんて通じなくなるわけです。
 
 
 
 
では、「いい音楽」とは?
 
 
 
 
結論を言ってしまいましょう。
 
 
 
 
ありません。
 
 
 
 
 
なぜなら、そこにはもう既に一つの仮定が存在するわけです。
「音楽にはある一つの正解がある」というね。
 
 
しかしながら、先程からもう耳にたこができるくらい話している通り、そんなものありません。
仮定そのものが覆されてしまえば、元も子もないわけですから。
大体、「音楽好き」ならまだしも、「音楽はあまり聴かないなぁ」という人にそれが通じるとは思えません。
「音楽なんてなくったって生きていける」、そういう人だっているわけですから。
 
 
 
正解も何もないこの世界で、正解を求め続けるのは愚の骨頂。
ならば、だからこそ。
自分が信じるものを貫き通すべきなんです、きっと。
  
この記事の前半で散々言っていた「本当」や「本来」。
それすら、あいまいなものなんじゃないか、って思ったりもします。
そう、その答えすら「矛盾」そのものであり、仮定であるに過ぎないんじゃないか、と。
 
 
 
無論、この答えだって、正直な話「正解ではない」と思っています。
しかし、だからといって、この思想を曲げるのもまた、「正解ではない」はずなんです。
 
 
昔を尊ぶもよし、今をときめくもよし。
しかし、かならずその自分とは真逆な、ある意味「矛盾した存在」を自分の中につくっておくと、意外と面白い視界が開けるかもしれません。
バニラに塩をかけるとより甘さが際立つようにね。
 

 
 
 
そういう意味では。
音楽は世界そのものなのかもしれません。
 
矛盾を孕んだこの世界。
現代科学では証明できない摩訶不思議がいまだに残るこの世界。
何より不思議なのは人間の小宇宙。
そんな人間の、どこにあるともわからない感性を、ただの一行で片付けられるわけがないでしょう。
 
ただの5分ほどにつくられた世界。
その5分で、その後の何十年が変わる。
 
 
そんな音楽が、もしかしたらある一つの「いい音楽」の定義なのかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
果てしなく深い海のそこ。
そこには何があってもおかしくない。
そこには何があるかも分からない。
そこには何もないかも分からない。
・・・でも、だから。
 
 
 
 
 
音楽は、きっと、どこまでも、大きくて、深くて、重くて、訳の分からないもの。
人間が作り出しておいて、人間では到底知る事の出来ない謎を抱えている。
そのくせ、人間がいなかったら、その謎もろとも、概念から消え去ってしまう。
 
ピラミッドの謎以上の謎だと思う。
あるいは、この銀河系の全ての星を数えるよりも難しいものだと思う。
 
少なくても、自分はそういう謎を、音楽に見せられている。
そう、信じている。
 
 
それが、正解か、不正解かなんて、知る由もなく、ね。