空気を読む

さて。
 
 
ここからはあくまでも未来にこの記事を見返す自分用なので、変な誤解を招かぬよう注意願いたい。
 
 
 
空気を読む。
それは決して流される事、付和雷同ではないということを気づいているだろうか。
 
空気を読んでいるのか、空気に流されているのか。
その違いをはっきりさせておく必要があるようだ。
それはつまり、能動的か、受動的か、ということだ。
 
 
ちゃんと意志をもって、その行動に責任を持った上でその決断をするのか、それとも、ただなんとなくその場しのぎで決断するのか。
そういうのをきちんと考えた上で「空気を読む」と言うべきなのだろう。
 
 
しかし、だ。
 
「俺は空気を読んでるから」といって自己中心的な行動をする人(自分はどうなのよ?)もみうけられる事だろう。
それは、果たして「空気を読む」ことなのだろうか。
 
 
確かに、能動的な分個人的であることに代わりはない。
より大衆らしくない行動になるのは仕方のない事だとは思う。
しかし、だ。
そこに「協調性」はあるか、が問題になる。
 
 
例えば。
 
曲中でアドリブをまかされるとする。
本来アドリブとは「ある決められた制約の中で自由に演奏する事」である。
そんな中で、コード進行ガン無視、リズム感ゼロでアドリブを進行させる。
それはアドリブである以前に曲であるだろうか。
無論、否である。
 
 
協調性というのはすなわちそういうこと。
 
あるまとまった意志の中で、その意志に基づいた行動をすること。
それが本来の「空気を読む」なのではなかろうか。
 
 
そも空気とはなんだろうか。
 
目に見えるものでは到底ない。
つまりは、五感で感じられるものではないわけだ。
 
非常に雑に言ってしまえば、それは「テーマ」、「方向性」である。
 
そういう方向でいこうか、とぼんやりと定まった方向性こそが、つまり「空気」なのである。
 
 
ではどうやって読むのか。
 
 
前後の会話を良く聞くことが前提であって、それでいて一番の有効策である。
というのも、「空気」自体が非常にぼんやりとしているために、何もないところからは決して生まれない、あるいは生まれているかどうかさえ分からないためである。
つまり、「空気」には前もってある程度の方向性をもたせる必要があるのだ。
なので、それを掴んでいれば、それこそが「空気を読む」事なのである。
 
そして、むやみに口を挟まないこと、である。
 
下手に口を出してしまうと、その方向性と上手くかみ合わなくなり、非常に不安定な空気になる。
それを「微妙な雰囲気」などといったりもする。
そんな状況をつくってしまうと、非常にばつが悪い。
それなのにかまわずそれを押し通すと、それもまたひとつの方向性とはなるものの、変わりすぎてしまった空気に動揺を隠せぬ人たちが続出するだろう。
つまりは「浮いている」状態になるのだ。
 
 
 
面白い事に、「空気を読む」のはこの日本の社会ではほぼ全てに当てはまる。
私の所属している吹奏楽部に始まり、友達関係、授業に積極的に臨む時、さらにはニコニコ動画にコメントする時、などと非常にありとあらゆるものにそれが当てはまる。
日本らしいといえば日本らしいのだろうか。
 
 
 
一概にそうとは言えないが、私が思う「大人」の一つに「空気を読む」ことがある。
 
自己中心的に物事を進めるのは「子ども」である。
「自分は大人だ」といってはばからないのなら、まずは「空気を読む」ことぐらいは出来て欲しいものである。
かといって「大きな子どものままだよ」なんて開き直られても非常に困るわけなのだが。
 
 
目立ちたいのなら、大衆ではなくより活発的な意志を持つ民衆であれ。
風景の一部ではなく、主人公的な一面も併せ持つ脇役であれ。
 
大人になる、というのはそういうことなのではないのかな、などと考えている。
 
 
 
 
それと、空気を作ることもまた、自己中心的なものではないことを言っておく。
 
例えるならば、アドリブからまた新たなアドリブにつなぐようなもの。
あんまり破天荒すぎると、またそれも崩壊を生みかねないのである。
 
やはり限られた制約の中でつくる事、それが空気を作ることなのだ。
 
 
 
こうやって、自由な会話の中にもあえて制約を自然につくっている私たち。
それが本当に良いかなんて分からない。
しかしながら、空気を読まないと周りから煙たがられるように思うのは、私だけの偏見なのだろうか。