朗読

山月記を改めて聞いた。
 
 
 
買ってもらった電子辞書に朗読された山月記があったからである。
ちなみにその電子辞書、オバマ氏の就任演説も(本人の声で!)収録されてあった。
 
 
 
素晴らしい。
実に素晴らしい。
 
一度知り尽くした文章だからなのかもしれない。
あるいは一度感傷に浸った文章だからなのかもしれない。
 
しかし、その時には知るよしもなかった味わいを、こうして今、味わえた。
 
これは、一大事である。
 
 
 
 
朗読は、目だけではなく、耳からも文章を読解させる。
それゆえに、その文章の世界観や、登場人物の想い、あるいは作者の巧みな言葉の言い回しなどを強く感じることができる。
 
より強く、自分のなかにその世界が刻まれるのである。
 
 
 
山月記は、非常に荒々しくまとめれば、李徴の薄幸さやそれに対する李徴自身の憤り、嘆きを描いた作品である。
と、同時に、作者自身の自分自信に対する憤り、嘆きを描いているとも受け取れる。
そうでなければ、あの李徴は存在しなかったであろう。
 
 
 
その、黒々とした想いのうちが、更に強く、重く感じられた。
 
 
 
言葉は「言の葉」と書く。
あるいは「言霊」とも言われる。
 
言葉というのは、感情なしには生まれるわけがないのだ。
伝えたい、その一心が作り上げた命なのだから。
 
 
そして、それが人の鼓膜を震わせることで、その人の想いに変化を起こさせる。
時に大きく、また時に小さく。
しかし決して、その変化が起こらないことはないのだ。
 
 
文章とは、その趣を文字にして託すことである。
時に耳からの情報よりも正確で、かつ趣を感じさせることもある。
それが今日に渡って文字が発展してきた所以なのではなかろうか、とも思う。
 
 
そして、それらを使い、より芸術性を高めたもの。
それが、朗読なのではなかろうか。
 
 
 
今こうして感情的に文章を書いているのも、おそらく先ほど聞いた山月記の朗読によるものだと思う。
こうして朗読の素晴らしさ、あるいは山月記という作品の秀逸さを伝えたくなったのは、きっと朗読によるものだと思う。
 
それほどまでに、これらは人を動かす力を持っている。
そう、私は確信している。
 
 
 
 
いずれにせよ、山月記という作品はオススメである。
 
 
 
 
余談だが、ナレーターになりたいな、と強く感じたのはここだけの話だ。
こんなに人を動かせるなんて、なんて思ったバカがここに一匹。
…見守ってやってください。