藤里的演者論

どうも、最近お腹の調子があまり優れない藤です。
N○Kの策略に乗せられてまんまとエピソード2を見てしまいました。
知ってるのに…。
 
 
 
 
さて。
コンクールですね。
だというのに自分は…。
 
 
 
最近はロックやら自分の曲やらしか聞いてなかったですからね。
どうも「歌い上げ」の仕方をすっかり忘れてしまったようで…。
バラードなんかを聞いて確認しないと…。
 
 
最近は技術しかみてない気がするんだよなぁ。
…あ、自分がね。
おかげで自分の感情やら曲のイメージやらがかなり疎かになっていたようで。
ちょっと前の自分ならもっと上手く振る舞えたものが全然…器用とは程遠くなった気がします。
 
 
想像力の大事さを改めて実感。
 
指摘されて気づいたのですが、僕の夢…というのもおそれ多いのですが、演じることと歌うこと、あるいは演奏することと読み聞かせをすること、というのは、かなり根の深いところで繋がってるのではないでしょうか。
 
演じること、歌うこと、演奏すること、読み聞かせをすること。
これらは「相手に意思を伝える」という点はもとより、「世界を創って、そこから伝えたいことを伝える」という点まで同じです。
例えば、役というのは「演者とは違う人、すなわち演者とは違う世界の人」を演じることです。
あるいは、歌というのは「厳選した言葉を巧みに用いて、聴者の心に何かを芽生えさせること」とも言えるでしょう。
つまりはゼロからイチを創る作業、といっても過言ではないように思われます。
 
しかしながら、演者や歌手がゼロからイチを創ることは極めて困難です。
知りもしない本の内容を事細かに説明するのが無理であるように、感じたことの無い気持ちを鮮明に伝えるのは不可能なことです。
彼らは、いえ、私達は、ゼロからイチを創っているようで、実は得ていたイチを違う「イチ」へと変換しているだけなのです。
 
 
そして、その変換の良し悪しで、その歌、あるいは役の「素晴らしさ」というのが決まるわけです。
より「ゼロからイチ」であるように見せかけられていれば素晴らしく思われますし、その逆も然りです。
私達は、その変換作業の一環として、技術を得ているわけです。
 
 
つまり。
技術と想像力は、同じ天秤の上にあるようで、実は次元が違うものなんです。
 
 
無論、技術だけでも歌らしくはなります。
しかし感情のない歌など、所詮は文学にも満たない、ただの文字の羅列です。
 
 
 
演者たるもの、演奏者たるもの。
この二つを駆使して、鍛練して、更なる自己形成をする必要があります。
これは誰しもが分かっていながら、誰しもが呆けてしまうこと。
先人の言葉を借りるならば「初心忘るべからず」。
大事なことだからこそ、一番最初に習うことなんだ、と常に自らに言い聞かせておきたいものです。
 
 
 
最近は少し偏ったジャンルしか聞いてませんでしたからね。
自己形成を呆けた証拠ですね。
…鍛練します。
 
 
 
それでは。
おやすみるく。