「空」って書いて「カラ」って読むんだよ 「ソラ」とも読むけどね

どもふ。


今日は思うところがあるので長くなるかも。


 
自分は、音楽の道、それもプロとしての道を進むつもりで今学生生活を送っています。
それがどのプロになるのか、いや、なれるのかというのはまだあんまり定かではないし、もしかしたらただのフリーターで終わるかもしれないし。
それでも自分の夢、目標といったものには必ずといっていいほど「音楽」の二文字が付きまといます。

そしてそれは、学生生活でもしかり。
相変わらず自分はロックバンドと吹奏楽(とJAZZ)の二(三)足の草鞋を履いておりまして、時々頭を悩ませるような自体が起きたりしますが、それはまた別の話。
そんな音楽生活を送っているわけですが。

自分は結局何を目指しているのか。

いや、プロを目指すとかね、そういうのは別ですよ。
そうじゃなくて、その先の話。

例えば仮に、現代の音楽シーンにおいてなくてはならないほどの存在になる事が出来ました。
「めでたし、めでたし」で、果たして本当にその物語は終わるだろうか?


自分は「音楽」を通じてこの「人生」という不可解極まりないものを少しでも解き明かしていこうと思っているわけです。
で、その後。
解き明かしてどうするの?と。
自分なりに解き明かして、ちゃんちゃん?


自分がこの道を選んだのは、そんな理由じゃ、ないよね?



なんというか、ものすごい矛盾のようなものを感じている。

知れば知るほどに、ますます謎は深まっていくし。
結局80年じゃ追いきれない真実があったりして。
それでも、それでも。
人は人であるためにその終わりの無い問題を解き続けるんだと思う。

でも、それには、何の功績も無い。

過程があって、途中までの結果があった。
でもそれまでだった。

そのことに、何の意味があるのだろう。

どんなに親切な試験官だったとしても、解き終わっていない回答には△もつけてくれない。
それとも、×がつくだけ、まだましだ、ってことなんだろうか。


例えば、この世の中の全ての不思議を死ぬまでに解き明かせたとして。
その人がそれから先生きていく理由は、はたしてあるのだろうか。

生かされる理由ならいくらでもある。
でも、生きていく理由は、ないだろう。

人は考える事によって初めて人になる。
問題と、回答と、解説があるのが人間である。
回答解説だけがあるのは、ただの参考書であるのと変わりは無い。


人は、欠落した、いや、無かったはずの回答と解説を作るために生きている。

でも、それに、何の意味があるだろうか。

その作業が果たして人以外の生物に何の恩恵をもたらすだろうか。
全ての人の恩恵と成りうるだろうか。
いや、はたして自分自身にとって本当に恩恵であるだろうか。


―満足。

そう、満足だ。
これがあって人は初めて快楽を覚える。

昔あったことだろう。
九九を全て覚えて、空欄になっている九九のマスを全部埋められるようになったときの、あの純粋な知への喜び。
あれがなければ、人は人ではなかったかもしれない。


そして、それは人生の定義を求める作業にもあてはまる。
ただし、それは「自己満足」であるにすぎない。






人は、何故、人として生まれてきたのか。
何故、そうやって生きてきたのか。
何故、そのように生きる必要があったのか。




地球の救世主として使命感を持つものもいるだろう。
万物の支配者として威張り散らすものもいるだろう。

でも、それに何の意味がある?
それは、何のためだ?



そして、人々はこういうとき。
決まりきって。

「理由付けだけでは、生きてなんかいけない」
って。



普段はあんなに理由付けを求めるのに。
東電の原子力問題の詳細を知りたがったり、そもそも原子力発電とは何なのかを知りたがったり、あるいは放射能物質の恐ろしさについて把握しておきたくなったり。

命の問題だぞ、どちらも。




正直言って、自分は、人をやめたい。




知らなければ良い事がたくさんあった。
考えなければ幸せだった事があった。
知らない事は幸福であった。

でも、死ぬ時は死ぬし、そうでない時は、とりあえず生きていくのだろう。
そして、今もまだ、自分はこうしてピンピンしている。

もし衣服を知らなければ、裸でいる事の恥ずかしさを知らないでいられた。
もし文字が無ければ、文字に縛られて世界を見ることも無く、純粋な世界を見れた。

もし絶望を知らなければ、希望を望んであがき苦しむ事など無かった。
もし希望を知らなければ、絶望の淵で悩み苦しむ事など知らずにいられた。


知らない事が、どんなに幸福であったであろうか。


それを、知らない方が良かったものを知ってしまった事の、意味は?



そういう運命にあったのだ、では済まされない。
だったら説明してもらおうか、運命とやらを。
その運命にはどのような意図があって創られたものなのかを。



一度知った苦しみを、忘れる事など出来ない。



どうすれば、こんな悲しみを乗り越えて、いや、立ち向かうだけでも良い、なんとかして、生きていくことが出来るのだろう。











きっと、その逃避が、自分にとっては、音楽だったのかもしれない。








だから、音楽は、自分にとって無くてはならないもの。
極端すぎる言い方をすれば、他の何よりも大事なもの。

自分が自分として保っていられる、最後の砦。
自分が自分である理由付けができる、唯一の聖域。


だから、自分は、
自分は、


いつまでたっても、ひとになんかなりたくない、っておもう。





理由責めをするなら、最後の最後まで貫き通して欲しい。
そうでないなら、野生になるしかない。



人ほどろくでもない生き物も無い。

勝手な呪縛に苛まれたり、無意味な柵を自分から作り上げたり。
妄想の産物であるにもかかわらず、あたかもそれが世界のど真ん中からわいて出てきた禍々しい塔であるかのように勝手にとらわれているだけなのだから。


それに、何の理由をつけたら、畏怖や崇拝や尊敬の対象になるんだい?






人になんて、なりたくなかった。
でも、このカタチとして生まれなければ、音楽には出会えなかった。

差が、大きすぎる。
得られるものが、失ったものに比べて大きすぎる。













でも、この生は、誰にも渡さない。
友達にも、死神にも。

自殺よりかは、こうやって悩んでいた方がよっぽどマシだから。








わからないことばかりで、たのしい。
でも、さみしい。