投げやりには美学もヘッタクレもありません
どもふ。
まぁ昨日の記事なんですが。
なんというかね、これでわかったね。
自分は「そういう」時に直面したら「逃げ」を選ぶんだな、って。
そういえば昔からそうでしたね。
「逃げ」の選択肢のある限りは必ず「逃げ」てきたような気がします。
逃げなければある程度いいところまでいけるんだけどね。
あと根っからの面倒くさがり屋なんだろうな、って思いましたね。
要は「考えるのメンドイから考えるのやめよーぜ!」の言い訳だったんだろうなぁ、ってこと。
生きがいにしている音楽も、どちらかといえば理論派というよりかは感覚派ですねぇ。
「こまけぇこたぁいいんだよ!」っていう。
「説明書なんかより慣れた方がはえぇだろ!」っていう。
そんなんだから「空虚」とかを感じてるんだろうと思いますけどね。
気づくと思考のベクトルがいつも「逃げ」の方向に向いている。
楽しいことをしたいと思うのは当たり前。
苦しい事は避けたいのが当たり前。
そんな誰にでもある当たり前だけを実践して、一番楽な道程を選んで、とても幸せに生きてきた。
そしてそれでもいい、って思い始めてる。
それがダメ、といわれることは無いだろう。
一人一人違う環境があって、それが許されてきた環境があって、それでもイッチョマエに大人になろうとして。
その結果が仮に今の自分達だったとしたら、それをどうやったら否定できるのだろう。
どんなに無様であったって、そこまで生きてきた証は目の前にいるんだから、生きれないことは無い、っていうことだ。
この世で感じられる事は、生きているうちにしかないんだから。
生きるか死ぬか、そのどちらかだけで十分すぎる。
まぁなんていうか、生きる死ぬとかどうでもいいんだけどね。
おそらく人間というカタチなのだから、死ぬ時は死ぬ。
そうじゃないから生きているだけ。
生きている間に何が出来るか、っていう議題もそろそろ飽きてきた。
やってみなけりゃわからない。
それでいいんじゃないかな。
と、いつものように「逃げ」ていくのだ。
逃げずに生きていく方法かー。
そんな生き方は自分が得ようとしてこなかったからなぁ。
今からでも遅くはないとは思うけど、身に付くかどうかは保障できないね。
だってもうこんなにも深く「逃げ」の意思が根付いているんだもの。
そう。
だからこうやって無関心でもいられる。
「関係ないよ、ふんっ」で済むんだもの。
人間失格でもなんでもいいよ、そうやって名前が付くなら。
クズでもなんでもいいよ、そういう風でも誰かに認識されるのなら。
自分は誰かに「ま、知らんけどね」っていいたいだけ。
すっごく迷惑な人種だと思う。
まー、なんだ。
自分を卑下するのはいくらでも出来るよ。
イヤなものはいつだって大きく見えるもの。
いいところなんていつだって小さく小さく輝くものなんだから。
錯覚したって、しょうがない事だと思うけどね。
っていうかなんであんな事書いたんだろう。
説明するのが本当に面倒くさい。
寝れば全部忘れる。
だから今日も寝る。
おやすみるくー