前向きな自分の考える「音楽」のこと

どもふ。

いよいよ定期演奏会が近づいてきました。
準備だとか色々なことに時間を割かれてまともに練習できる気がしません。

あと最近少しドラムに触れてない時が増えました。
事務はもちろんのこと、後輩のドラムへの飽くなき情熱故になかなか叩く機会がありません。
少なくとも田村ゆかりさんの「この指とまれ」をコピらせてくれるだけの時間すらありません。
あるのは朝練と曲合わせだけ、といっても過言ではなく。
若干物寂しいような気しかしてませんが、反面、自分もそういう複雑な立場に立つような役回りを負う年になったのだなぁ、と実感。
自分も昔あんな風に叩いてたのかなぁ、とか思うとそれはそれで結構淋しいものがありますよね。

まぁ彼らのプレイングとその当時の自分のプレイングはかなりかけ離れてますがね。
彼らは地道に8ビート、16ビート、スウィング等典型的なビートをきっちりかっちり押さえてからゆっくり上達していったようですが、自分はある程度適当にビートが刻めるとわかった瞬間、BUMP OF CHICKENを叩き、マキシマムザホルモンを叩き、東京事変を叩き、CASIOPEADream theaterを挫折し、凛として時雨に挑み、9mm Parabellum Bulletを知り、その随所随所に声優の楽曲やアニソンを混ぜながら、「実践主義」「学ぶは『真似ぶ』から」をモットーに耳コピ中心にぶっ叩いてました。
最初にもらった譜面は確か「Lost my music」と「God knows...」でした。
確か長紋さんからもらった。

彼らは本当に出来る子です。
ですが、少しずつ欠けている点がある気がします。


もし彼らに自分のプレイングを受け継いでいく意志があるなら、これだけは必ず守ってほしい。
「音楽は楽しくて仕方なくて、もうどうしようもないくらいにそれに触れられている時間が楽しい」ということを自分だけでなく相手にも伝えること。

自分の原動力はまさにこれです。
楽しくて仕方ないからそれを伝えるために「技術」を得るだけのこと。

正直言って、音楽をする者にとって大事なものは技術もリズム感も音感も二の次です。
大事なのは「楽しい」ということ、「嬉しい」ということ。
この気持ちを持たずして音楽を奏でる、というのは、MIDIなどの平面的で一様なつまらない音楽を聞かせる、ということです。

音楽は、無形の芸術。
芸術は、則ち人であり人の心。

心を奏でるのにまず必要なものは、心であることに変わりはありません。


だから、下手の横好きでもいいんです。
下手なのは今だけだから。
磨けば必ず光るから。
単に光るまでの期間が長いか短いかだけです。
好きなら必ず上達します。

どんなに下手でも好きな気持ちがあればいくらでも歌は歌える。
仮に上手であったとしても、嫌いであれば歌を歌うことはないからね。



音楽に必要なのは感性。
それを磨くためのものとして、技術があり、リズム感があり、音感があるわけです。


好きになろう!
好きなら好きと言おう!


自分はもう嫁にしたいくらい。
生涯の伴侶としたいくらい大っ好きです。
変な友人よりか遥かに好きです。
まぁ誰とは言いませんがね。



彼らもきっと「ドラムは好き」っていってくれるでしょう。
だから今は、がむしゃらにただひたすら「ドラムで音楽を奏でる」ことを追求してほしい。
それありきで「上手くなりたい」と言ってほしい、そう願っています。



自分は音楽以外にずーっと好きなものなんて無かったですからね、趣味では。
演奏に対して嫌気がさすことは正直あったけど、音楽に対して嫌気がさすことはなかった。
いつだって自分の心の大部分を占めてた。
そしてそれは今も同じで、しかも年を負うごとに、朝になる度に徐々に強くなっている。


これはスゴいことだと思う。


だからこの音楽に触れている時間が非常に大切だし、だからこそ距離を置きたくなるほどに愛してしまう。
身近に触れられる、どこにでもいる、絶対神のような存在。
そういう意味合いで自分は音楽のことを「聖域」、サンクチュアリィと念じているんだと思う。

バベルの塔が崩れたって、音楽は変わらずに人の心を繋いでいくことができる。
こんなに平和的で、友好的で、静かな絶対は他にはない。
そう信じてる。



それでは。
おやすみるくー