信じる

もし。
もし仮に、「愛する人に求める条件」が完璧に揃っている、あるいは、今愛している人と同じ条件を持つ別の人がいたとして、その人を愛することは絶対ないと言えるだろうか。
言えるとして、ならばそれは条件以外で結局何故その人じゃなきゃいけないのだろうか。
「思い込み」なのではないのか?
もはや信仰や崇拝とも言えるような、そんな根拠のない、確証のない、ふわっとして不確かな、そんな曖昧なものを、絶対として考えているんじゃないのか。

だが私は、その妄信を否定するつもりはない。
自分もまた、そういう不確かなものを好み、その不完全さを「人間らしさ」と名づけ、その曖昧さを「愛」と呼び、その崇拝とも言える過剰な思い込みを、「信じる」という言葉に変えて賛美しているからだ。

曖昧なんだ、確証はないんだ、「そうでなきゃいけない理由」なんてあってないようなものなんだ。
だからこそ、いつまでもそれを忘れずに、いわゆる「初心忘るべからず」というヤツで、自分が「これじゃなきゃだめなんだ」と思い込める、その「愛の深さ」の鮮度を、いつまでも、保つ必要がある。

信仰は、力だ。信じられるというのは、強い。
その強さこそが、時に強靭な意志となり、時に逆境を愉しませ、時に頑固な妄想と化し、時に「善さ」を忘れさせる。
その危険な二面性を忘れずに、「信じること」に向き合わなければならない。

「絶対」なのだ、信じるということは。
それがブレるようなら、そんなものはまだ「信じる」に値しないのだ。
信じるということは、自分の残り全ての人生を掛けてもいいと、残り全ての人生を棒に振っても構わないと、そう言い切れる強さを持って、始めて「信じる」といえるのだ。
それくらい思えるのか。
信じられるのか。
いつまでも、ずっと、自問自答し続けることでしか、それは鮮度を保てない。
最早悪いストレスの一種だ。だがそれを好んで、勝ち取りに行くのだから、信じるということは、非常に恐ろしい。