コミュ力ってなんですか?それは必要なのですか?

どうも。

実は。
大学の授業がいわゆる「コミュ力」を試すようなものが多くて苦痛でなりません。
大学生になるとやたらチャラつく輩がいますが、そういうのを毛嫌いする性質のある自分にとっては、コミュ力がそのようチャラさそのもののように見えて、なんだか微妙な感じです。
そんなにコミュニティ作ってどうするのかしら。

クラス、という概念がほとんどないウチの学校において、春学期(4月~9月)の週に二回、二コマしか一緒にならないような人たちとそんなに密に接しようとしても無理があると思います。
それにやってることといえばグループワーク的なやわらかめの体育と情報基礎という地味ーな作業。
…普通に出席しさえすれば単位がもらえるような授業で彼らはいったい何を恐れてそんなに知り合いを作ろうとしているのでしょうか。
私にはさっぱり見当がつきません。

同級生に金持ちがいるとか、やたらすごい研究所とか会社にコネがある、とかでその人たちと知り合いになろうとするのはなんとなくわかります、くだらない理由ですけど。
でもそんなんでもなく、単純に「友達になろうぜ!」というノリだけで声をかける。
見習うべき姿勢だとは思いますが、なんというか、その必要性を感じないというか、自分には合わない姿勢だなぁ、とつくづく感じている今日この頃です。


話すこと自体は別にどうということはないのですが、自分から話を切り出すことは基本苦手です。
「話したい話題がない」「伝えたいことがない」「なんなら別にお前に打ち明けたい思いなんかない」というのが本音。
とっても表面的で事務的な、愛想笑いばかりを連発するような会話にしかなりません。

趣味が合うわけでもなく、仕事が一緒なわけでもなく、連帯感を感じるようなことがない相手に対して、なんであんなに他愛もないことで喋れるのですかね。
自分にとっては「つまらないもの」とか「くだらないこと」とか「興味のないもの」としてしか処理されない話題が多いこと多いこと。
私個人の問題だとは思いますが、まぁなんというか、未だに、というか、年々人と接するのが苦手になってきているような気がします。


「面白い」と思わないような人に、どうして声をかけられるんでしょうか。
そもそも、どうして知らない人に声をかけられるんでしょうか。
同級生だから、同い年だから、という些細な理由だけで声をかけられる、うらやましい限りです。

まぁこんな人間なので、自分から友人を作るのは非常に苦手です。
なので、「面白い」と思ってもらえるように日々自分を磨いているつもりです。
「面白い」と思ってもらえれば、一言でも二言でも話かけてもらえるだろうし、そこから話が広がれば万々歳なわけです。
それを狙っているし、それしかないんです、自分には。
だって「こちらから発信したいことなんてない」んですもの。

自分に関心を持つ相手というのは、たいてい趣味とか趣向とか、そうでなくても感覚的なところでどこか通じ合うことのできる相手である可能性が非常に高いと思います。
自分としては、そういう人たちにこそ話していきたいし、そういう人たちくらいにしか話したいことなんかないんじゃないかと思います。
狭いコミュニティかもしれませんが、広くて浅くて逆に孤独を感じるようなコミュニティよりかは、遥かにいいと思います。

…あとは、自分の記憶力の問題かもしれません。
そんなに覚えられませんよ、関心の合わないような人の名前や顔なんか。
もともと知識として記憶することが不慣れな自分にとって、そういう「不快」とは言わないまでも「不慣れ」を感じてしまう記憶するという動作は性に合わないんですよ。
それを、授業でもなんでも、第三者からとってつけたようなコミュニティの場に放り込まれて、「ホレ、この人が○○さんだ」とか、「10人と友達になりましょう!」みたいなことをさせられるのは、非常に苦痛でしかないわけです。
作りたくなったらね、誰だって必要にかられりゃなんだってしますよ、なりふり構わず。
それでいいじゃないですか。


自分の殻を作って、その中に閉じこもって、その中で考えたこと、感じたことを、そっと世の中に還元する。
そういう生き方をする人も、いなくはないんです。
そういう人が生きやすい世の中、とまでは言いませんが、そういう人を殺すような世の中にはしてほしくないものです。


なんで、そんなに、誰かに話すようなネタを持ってるんですか。
なんで、そんなに、友人作りに夢中になれるんですか。

自分には分かりえない感覚です。
いつだって、友人は「気づいたらそうなっていた」関係でしたから。