冷静な本能

シーソーを平行に保つのは難しい。
 
 
 
人が人である理由、それは知能である。
脳みそが想像もつかないような働きをして、人を人たらしめている。
そのためには心臓だって動いていなきゃいけないし、呼吸をして酸素を取り入れなきゃいけない。
しかも無意識下で。
 
 
知能ってなんだろう。
 
 
それは無いものを有るというためのものだろうか。
 
 
「例えばここに1億円が積まれているとする」
それだけであたかもあるかのような想像を創造することができる。
あるいは、映像として見えたりもするだろうか。
 
 
人を欺くためにあるものだろうか。
 
 
「もしもし、俺だよ俺」
それだけであたかも息子であるかのように思わせる。
懐かしい犯行手口ですね。
 
 
 
知能ってなんだろう。
人間ってなんだろう。
 
 
ただの野生生物であれば、そんなこと考えなくてもよかったろうに。
こうやって「進化」した以上は考えざるを得ないわけだ。
…それにどれほどの価値があるかなんてわからないままに。
 
 
 
本能、それは身体の意思。
心ではない、もっとよく染み付いた感覚が欲する行動。
 
 
その反対が知能だとするならば。
人間には2つの意思があると言えるだろう。
 
 
しかし、だ。
考えるまでもなく、こうやって考える心は、そうやって欲する心もよく知っている。
わざわざ区別するまでもなく、それは紛れもなく「自分」である。
 
じゃあ心は1つなのか?
そんなこともないだろう。
「AしたいけどBしたい」とか思う辺り、どうやら2つ以上ありそうだ。
 
 
 
これはあくまでも個人的な考えだが。
 
 
人の心は、人が思っているよりも単純な構造で、そのくせ人を悩ませる性質を持っているんじゃないかと思う。
 
 
まず、Aしたい、という単純な欲求。
次に、それに対する意見・反論・Bしたい、などの補助的な考え。
そして、それらを客観的に見つめる、傍観的な自分。
 
そんなものが人間を人間たらしめている、と自分は信じて疑わない。
 
 
 
人間は、所詮、肉と骨と水の塊である。
それは恐ろしいほどにドロドロしていて、それは恐ろしいほどに不完全だ。
それゆえに、人間は「完全」を、「理想」を目指す。
それが人間を人間として育成しているのである。
 
 
好奇心を忘れた人間は、もはや野生である。
かくいう自分も野生的な人間、つまり好奇心をとりあえずまだ保っているわけだ。
それくらい、人間は知に対して貪欲なのである。
 
 
 
そう考えると、「知がなければ生きていけない」存在、とも言えるようで、非常に不気味だ。
他の生物は、政治やら金やらなんて気にせずに生きていけるのに、人間はそんなよくわからないものに支配されているわけだ。
非常に不気味だ。
 
 
しかしながら、だ。
「支配」やら「秩序」やらは所詮人間様の世界でしかない。
他の生物にとっては全くといっていいほどどうでもいいことだ。
無論、ある程度の知能を持つ生き物のなかには、兄弟、なわばり等を重んじる生き物もいる。
だが、それとこれとは違う。
人間様の「秩序」はもっとドロドロしている。
戦争やら平和やらやたらとそういうものを取り上げる。
つまりは、行きすぎた知能によるテクノロジーに対抗する術を、ということではなかろうか。
となれば、まさに、知能に支配されている、知能に自身が滅ぼされるのを防いでいる状態である。
 
 
 
知能ってなんだろう。
 
 
知恵の実ってなんだろう。
 
 
 
永遠の罪とはこのことなのだろうか。
知能に支配され、作り上げたものに支配され、いつしか人間が人間でなくなるまでずっとつづく。
それが、知恵の実だったのだろうか。
 
 
 
野性的になろう。
言葉に支配されるくらいなら、音に埋もれた方がまだましだ。
 
クールな野性を目指そう。
人間が人間らしさを失わない程度に、人間が人間でなくならない程度に。