from 5/23

…僕の名前は「のぞみ」と言っている。ネット上では「希美」と書いてそう読ませているが、本名では「望」と書く。一応これでも男だ。
時々エゴイズムを強く抱くことがある。人には言えないような強い衝動に駆られそうになる。口や態度には出さなくても本当はいろんなことを考えてたりもする。結構色々とやりたいこととか考えてしまう。
なんで、そうなんだろう。 って考えた時、一つ思い当たる節がある。 ちょっと暴論かもしれないけど。

僕は、名前は一つの十字架だと思っている。

少なくとも僕は、「望」という字を与えられてこの世に生きてきてそう思う節がある。わけもなく人に希望されたり絶望されたりもし、単純に自分が願望欲が強かったりもし、あるいは望月が好きだったりもし。何かとこの「望」という字を感じずにはいられない生き方をしている。
そもそも「願」と「望」はどう違うんだろう、と考えた時、僕はこう解釈している。「願」とは、人の平均的な想い全般を指す。「望」とは、「願」よりもより強く、より情熱的で、前向きで、そしてより理想の像がくっきりしてる。そしてそれ故に、「願」よりもエゴイズムだ。
願いっていうのはまだどこか冷静に見れるところがあると思う。ぼんやりと見るからこそ、願いはやっぱりぼんやりしてる。でも望みは違う。もっと切迫しているし、もっと必要としている。それ以外に何も考えられないから、ただ我武者羅にやるしかなくなって、エゴに走る。
そして、望むという動作は、フラットであったところから突如として湧き起こる動への強い衝動やその動きを表すのだと思う。だから、望むっていうのは、そういう人間の欲求という生臭さの典型だと思うし、人間が人間足らしめていることの象徴だと思う。

僕は、そういう、「人の感情」の、「人の情熱」の象徴を背負って、それを期待されて、「望まれて」、こうやって生きてきたんだと、思う。
きっと親はそこまで考えてなかったと思う。そういう一種の呪いみたいなものまで考えていたとは思えない。でも、それでも、彼等もまた僕に「望んで」いたし、それは今でも「望んで」いるんだろう。きっと、永遠に。
人の願いを、いや、人の望みを押し付けられ、あるいは託されて、それらを叶えるために、僕は生きていくような気がする。そういう呪縛を感じる。きっと誰だって一度生を受けたなら誰かに望まれるだろう。でも、僕はそれ以上に、自分の名前として明確に示されたからこそ、余計にそう感じている。

そしてもう一つ、願いや望みは、少なくともこれまでの科学のスタンスから言えば、決して科学じゃない。抽象的で、非常に曖昧で、意味や意義というものから生まれてきた不確かな衝動だからこそ、その定型を保つ必要が無いし、それこそが願望の在り方とされてきた。
そういう抽象を背景に持つ言葉を与えられたからこそ、かもしれない。僕は抽象的なぼんやりとしたことを考えるのが好きだ。文字の意味や言葉の意味、あるいは自らの心情に対して思いを馳せることはとても好きなことだ。趣味以上のことだと思う。
そしてどこかで「細かいことはいいじゃん、大意が分かってればさ」って思うのも、きっとその抽象性を守りたいから…という言い訳も出来ないことはない。多分そこは自らの怠惰に起因するところが根強いと思うのだけれども。

…言葉って、けれども、一番抽象に近い具体だと思う。現象ということに起因して、その心のあり方や、あるいは存在そのものを定義することを役割とするのが言葉であると思う。それって、抽象を具体に当てはめる動作と一緒じゃないか?
それじゃあ抽象に生きていることにならないじゃないか、と思う心もあるけれども、けれどももう一度良く考えてみよう、そもそも抽象と具体という定義だって言葉だ、つまりそういう線引きだ、区別だ。それらを表す言葉が無ければ、全て頭の中では等しく「よく分からないもの」という認識になる。

…どうして、人は言葉を持たずに生まれてきたのに、言葉を持たなければずっと抽象の渦の中にいられたのに、わざわざ言葉という具体へと堕落することを選び、そして何故その具体を通じてもう一度抽象へと帰ろうと画策したのだろう。そんな回りくどいことなんて、しなけりゃいいのに。
もっとも、皮肉なことに、言葉が無ければ、そういう疑問すら起きなかっただろうけどね。

話を元に戻せば、望みっていうのは、そういう具体から一つの抽象へと到りたいという心のあり方を意味していると思う。「望み」という字に人が託したものは、紛れも無く、人の抽象への帰還、理想への到達、すなわち、完全への昇華を夢見る、そんな人々の飽くなき欲求が、こめられているんだと、思う。

僕は、そういう宿命を背負っている。誰からもそう分かるように、ご丁寧に名前に付けられている。逃げられや、しない。

完全に到れないことを知を以て知りながら、尚も知を以て完全へと到ろうとする、その人間の飽くなき欲求、愚かしい欲望、見上げた馬鹿っぷり、しかしその愚直なまでの進化の可能性に、僕はずっとつき合わされてる。そしてこれからも、きっと、ずっと。
それが人の、人たる所以だと、そう信じているから。僕は、人としてこの世に堕ちてきたから。僕は、望むことを、やめない。愚かと知りながらも立ち向かうその信念に、尊いとされた愚かさに、僕は、ずっと付き合っていく。ずっと、「望」という十字架を背負って。ずっと。
望月のように、完全でありたいと、そう望んで。完全であると妄想された望月の如く、誰かの望月であるために。僕は、誰かの望みを一身に背負って、この身では無理だとどこかで悟りながら。矛盾を、希望と絶望を抱えて、僕は、「望」としてこれからも生きていく。
…永遠に至らぬ、完全に想いを募らせながら。